池神社由来

池神社由来

-、神社の所在他

(イ)吉野郡旧地峰村

(ロ)古は旧池峰村大字辻堂に鎮座ありしを元和年間(1615-1624)に現代の社地に遷祀せるものなり遷祀之後も元の社地を記念として小社を安置し奥宮と称へ氏子の崇敬所なりが現今に至るも旧祉現存せり此の地小地小字を辻堂と称するは元祀堂ありしに起因し地名としたるものならん、古は池原より登りたる岑現今辻堂と称うる所に大鳥居の建設ありしこと古記録に伝へり。

(ハ)社地境内は安政年間(1854-1860)大和五条代官所より調査ありしとき反別一反一畝七歩なりしを明治十二年(1879)に至り境内修復の議あり其当事神社宝前の古池(其地名を琵琶と云う)南端の一部を埋立て元敷地に連接せしめたるを以て更に一反八畝歩を増し現在の反別二反九畝二十五歩を造設せり、附記此の埋立工事超修以前は現地の南端は今の大鳥居前まで突出し其の中央に真曲橋(しんおればし)を架設しありたり。

二、神社の名称

神社の旧名称は何年頃の製作彫刻とも判明ならざれども本殿に安置しある尤も古朽したる額面に依れば池峰大明神とあり地方通俗の多く唱ふる処に依れぼ池大明神と尊称せり。

三、祭 神

主神は現在の明細帖に市杵嶋姫命の壱柱のみ記載あれども是れは其の当時の諷査誤り

ならん其実正は左に列記の三柱の神霊を合祀せるなり。

市杵嶋姫命 天児屋根命 少那彦命

此の三柱の中市杵嶋姫命の地方の御事蹟は明瞭ならざるも両部神道の時代に於て氏子等の弁財天と唱へ信仰したる事実の口碑に伝ふる処に依て鑑みれば現在の明細帳に記載の尊号を奉るは適当ならん。

天児屋根命を奉斉せるは神代の昔し天照大御神の天窟戸に御匿れ遊ばしたるとき天児屋根命御美はしき.祝詞を奉奏したるに依り其の奏白したる御祝詞に御感じ遊ばして於是初めて窟戸を御聞き玉うたと云う専あり、天照大御押すら御感応遊ばす程の御高徳のある御神なるに依り其の古き御伝に感じて此の神の御恩沢を仰ぎて同神霊を奉斉せしならん。

小那彦名大神を奉斉せる因縁は此御神は、常に弓矢を持て吃然田畦に立ち克く鳥啄え災を除き竊奪の難を除き又は湯醴を送り咒薬を定むる等其の異功の大なる恩頼を追念して其の御神霊を奉斉せるならん。

四、神階勲等

該当するもの無之。

五、旧社格

合格するもの無之。

六、社 殿

(イ)住古の本殿は行九尺梁行七 尺檜皮葺屋根にて春日造本殿の中央に方三尺の内陣を設く本殿三方の壁及御扉には最も美術功妙なる種々の模型を画がき彩色優美たり其の用材は檜槻の二種を用い本殿の四囲に玉垣を入口に楼門を建つ、楼門前の石段の下本と拝殿との中間に中鳥居ありて拝殿の前に大鳥井を建つ毎二十一年日を期し改造なし遷宮式最も壮厳に謹行す。拝殿は桁行六間梁行二間廊下造り桁茸屋根にて至極質素なる構造なりし、附記本殿明和元年(1764)会式改造当事の彩色者は金峰南帝祭主堀内将監権大輔中務卿藤原忠顕と

あり。

(ロ)現在の本殿は桁行一間四尺寸梁行一間五寸にて総て檜材を用い構造は神明造りに変更せり但し屋根は銅盤を用ふ。